設定探訪/中島 キ43 一式戦闘機 隼

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隼 概要
中島 キ43 一式戦闘機 隼 Nakajima Ki-43 Army Type 1 Fighter Hayabusa
オスカー Oscar (連合国コードネーム)
第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の主力戦闘機。 海軍の零式戦闘機と並び称される名機。
当時東洋最大、世界有数の航空機メーカーの中島飛行機が設計。 空力は日本の宇宙開発・ロケット開発の父 糸川 秀夫が担当。
日中戦争時の1941年6月~8月、第五十九戦隊所属の9機が漢口から重慶までの長距離進攻に参加したのが初陣。
火力に乏しかったものの、高い運動性と操縦性、故障の少ない信頼性が評価されている。
愛称について
一式戦の「隼」という愛称は、太平洋戦争開戦まもない1942年3月に陸軍航空本部報道官によって公式命名されたもので、これは太平洋戦争緒戦において一式戦で活躍した第六十四戦隊 (加藤隼戦闘隊) の部隊歌 『飛行第六十四戦隊歌』 の冒頭のフレーズ 「エンジンの音 轟々と 隼は往く 雲の果て」 からとられている。
第六十四戦隊 64th Sentai
加藤隼戦闘隊 Kato hayabusa Sento-Tai
太平洋戦争初期に活躍した大日本帝国陸軍飛行戦隊。 特に第4代隊長の加藤 建夫 かとう たてお 陸軍中佐 (戦死後、陸軍少将) が率いた時期が有名で 「加藤隼戦闘隊」 と称される。
太平洋戦争の緒戦となった南方作戦で各地を制圧。 ビルマ戦線ではイギリス空軍や AVG (フライング・タイガース) と交戦した。
当初、加藤は一式戦闘機 隼の採用には反対意見を抱いていたが、第六十四戦隊に隼が配備されるや、自らもエース・パイロットとして隼を使いこなし、隼の名声を高めた。
技術と活躍や人徳から、加藤は部下から軍神と称され、1944年3月に公開された東宝映画 『加藤隼戦闘隊』 も大ヒットした (特撮は円谷 英二)。
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G.I. ジョー・トイ
ジャパニーズ・パイロット (2000年)/ジョーコン限定メン・オブ・アクション (フライング・タイガー)
Japanese Pilot 中国で AVG (フライング・タイガース) と戦った日本軍の戦闘機パイロット。ボックス・アートに従えば愛機は中島 一式戦闘機 隼。
※画像は mastercollector.com より。

素体:ヘッドはCC の 442nd インファントリー:ニセイ・ソルジャー (1998年) のジャパニーズ・ヘッド。
ボディーはクラシック・コレクション素体。
付属品:
ドッグ・タグ
トロピカル・フライト・スーツ ブーツ×左右
フライト・ヘルメット ゴーグル スカーフ パラシュート・ハーネス
タイプ14 1925 ピストル (※十四年式拳銃) ショルダー・ホルスター
サムライ・ソード スカバード
ボックス・アートの隼のアップ。

WWⅡ ジャパニーズ・アーミー・エア・フォース・オフィサー (2000年)/フォーリン・ソルジャーズ
WWII Japanese Army Air Force Officer (#57726/57725)陸軍飛行第六十四戦隊 (加藤隼戦闘隊)。ただし説明文の内容は特に第六十四戦隊を対象としたものではない。

素体:
ヘッドは新規造型。
手はスモール・ハンド。
※ボディーは未調査。
付属品:
シャツ パンツ レッグ・フック ブーツ×左右
フィールド・ハット ベルト及びバックル ライジング・サン・アーム・バンド (※日章旗腕章)
ソード シース
キ-27 ピストル キ-27 アモー・クリップ ホルスター
レポート・マップ・ケース 航空機識別帳及びケース
写真 旗/バナー (※日章旗)
説明文:
ワールド・ウォーⅡ ジャパニーズ・アーミー・エア・フォース・オフィサー 64th センタイ
(※第二次大戦日本陸軍飛行第六十四戦隊士官)
勇敢、忠実、戦いにおいては恐れ知らず……第二次大戦における日本の空の勇士たちは、かつてアメリカ合衆国軍が交戦した中でも最も不屈な戦士の一つだった。 戦争の初頭、日本帝国陸軍飛行戦隊 (JAAF) は西太平洋の厄災となった。 それぞれ “ ゼロまたはジーク ” (※零式艦上戦闘機)、“ ケイツ ” (※九七式艦上攻撃機)、“ ヴァルズ ” (※九九式艦上爆撃機)、“ ベティーズ ” (※一式陸上攻撃機) のニックネームを付けられた日本の戦闘機、魚雷爆撃機、急降下爆撃機、双発爆撃機は、環太平洋沿岸に容赦ないテロを仕掛け、1941年12月7日、真珠湾でアメリカの艦隊と空軍をほぼ壊滅させた。 1930代末から戦時中にかけて、日本陸軍飛行隊のいくつかは、同盟国 (※訳注:アメリカの同盟国) の航空機の撃墜で他に抜きんでた成功を収めた。 こうした部隊の一つが、1945年の終戦時に JAAF において最も多数の “ 撃墜王 ” を輩出した第六十四戦隊であった。
フィリピン、東南アジア、グアム、マレー半島、東インドで日本の攻撃機のうなり声が鳴り響く中で、昇る朝日は極東でその帝国の領土を拡張していった。 この不快な雷も間もなく1942年6月にミッドウェー海戦によって静められることになる。 そこで、どちらの艦隊も互いに初めて経験する最大の海上戦の一つが勃発し、日本帝国の最高の飛行士の多くがアメリカの最高の飛行士の一部に向かっていった。 決着がついた時、日本の4隻の航空母艦が海底に沈み、優れた空の勇士たちの多くが撃墜され、この敗北はアメリカ人を破るという日本の望みにとって著しい打撃となった。
第二次大戦の残る期間で、同盟国と共に島を転戦した勝利によって日本帝国のサイズは減少した。 日本のパイロットたちは、圧倒的なアメリカの力と火力に面してもなお、勇猛果敢に戦い続けた。 1945年4月の沖縄戦において、日本のパイロットたちは自殺的な “ カミカゼ ” 特攻でアメリカの侵入任務部隊を攻撃したが、これは日本が1944年10月のレイテ沖海戦で初めて用いたものであった。 沖縄でのこうした攻撃によって、いかなる犠牲を払おうとも総力戦を遂行しようとする日本の不屈さのレベルは新たな高みに至り、太平洋中のアメリカ海軍の兵員たちの背骨を震え上がらせた。 真珠湾で起こされた“眠れる巨人”、現れた勝者は、最後まで敵の制圧には苦戦を強いられたが、一時は強力だったその空軍は4年前に眠れる巨人を首尾よく攻撃した時点で風前の灯となっていたのだ。
下はフィギュアに付属する写真と同じもの。
※画像検索してみましたが、詳しい情報は得られませんでした。

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