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ハズブロ社の 「G.I. ジョー」 に関するランダムな記事のブログです。

設定探訪/アラシカゲ一族と「硝煙の時代」─16世紀を中心に─(寄稿)

 ごきげんよう、諸君! 余がスプリングフィールド大学最高学長コブラ・コマンダーでおじゃる!
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 本日は、先日開催された国際忍者学会で発表されたプロフェッサーTOROによる最新論文を掲載してみたいと思うでおじゃる。



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アラシカゲ一族と 「硝煙の時代」 ―16世紀を中心に―
                  TORO (スプリングフィールド大学客員教授、クリムゾン・ガーズメン・フェロー)

はじめに

 20世紀後半から21世紀初頭の現在まで、世界を暗躍する国際テロ集団 「コブラ」 と、彼らの野望を阻止すべく戦火に身を置く特殊部隊、「GIジョー」 との戦いは続いている。 激しい戦いを続ける両軍の影には、常に共通の存在がちらついている。 日本の忍者集団、嵐影一族 (以下アラシカゲ) である。
d0164702_17024624.jpg アラシカゲの御曹司は白き装束をまといコブラに与し、彼の兄弟弟子たる沈黙の忍者は黒き装束で戦場を闊歩する。 ストームシャドウとスネークアイの2名である。 アラシカゲは、一度は消滅の危機に陥ったものの、見事に再興を果たし、敵対する両組織の要としての役割を担っている。 では、アラシカゲは何故現代まで生き残ったのか。 筆者は以前、レッドニンジャの存在を考察する上で、15-16世紀に三種の神器を守護する上で分派したとの論を立てた (i)。 この時代は日本の歴史上に軍事的な革命をもたらした。 鉄炮・大砲の全国的な使用時期に当たる。 アラシカゲは火器が次第に重視されるようになった戦場に適応したことにより、現代まで生き残り、また世界各地の戦場においても重んじられている (ii)。  本稿では、火器が日本に本格導入された15-16世紀、「硝煙の時代」に、アラシカゲがどのように参戦したのか、また火器を日本にもたらした者は誰であったかを検討するものである。


第1節 異邦人と火器

 従来の通説では、最初に日本に導入されたのは鉄炮であり、1543年の種子島にポルトガル商人により持ち込まれたと言われる。 しかし、近年ではこの説の基となった 『鉄炮記』 の信憑性が揺らぎつつある (iii)。 ともあれ、1562年の毛利家の文書には鉄炮に関する言及があり、新兵器はその威力を遺憾なく発揮していた。 そして、この頃までには鉄炮はアラシカゲの知るところとなり、その実物も伝来していたと考えられる。
 だが、筆者は前稿にて、アラシカゲが倭寇とつながりを持つ愛洲氏と密接な関係を持っていたことを検討した。 当時の倭寇は西洋式ではないが、独自の発展を遂げた火器 「石火矢」 を所持し、中国の明朝海軍を苦しめていた。 そして近年、「石火矢」 を所持した武装勢力が日本の内陸部に存在している可能性が出て来た。 西国の深山にて、森を断ち土を穿ち、木々を一陣の煙と化す鉄工場、すなわち 「タタラ場」 の主である 「烏帽子」 もしくは 「御前」 と呼ばれる人物が率いる武装集団の存在である。 「御前」 (iv) は伝承によると、若い頃に奴隷として海外に売られ、倭寇の一員となっていたが、頭目を殺害し国に戻り、タタラ場を拓いたと言われる。 その時に 「タタラ場」 の 「力」 となる大陸式の火器を持ち込んだと言われる。 そして、「御前」 の背後にちらつく謎の存在、唐笠を旗印に火器を振るう真紅の僧侶集団 「師匠連」 がある。 彼らは 「御前」 への軍事協力を見返りに、その山に住まう古の神の首を要求していた。 不老不死の力を持つ古の神 (v) は、天皇の勅命により 「山の民」 からも狙われ、その首を切り落とされたと言われる (vi)。 古との決別を示す寓話として、この話は極めて興味深いが、問題は天皇に 「山の民」 への勅命を要求出来た、「師匠連」 とはどのような組織であったのか? これは明朝の特務機関であったと言われる。 当時の明皇帝である嘉靖帝は、道教を盲信し不老長寿を求めていた (vii)。 彼は日本を神仙が住まう 「蓬莱の地」 と思い込み、そのため、倭寇勢力とつながりのある 「御前」 に軍事協力を行い、京の天皇家へも圧力をかけ、神殺しを行わせたと考えられる。
 不老不死の探索や元倭寇の製鉄業者等、日本の深山にまで入り込んでいた大陸の勢力は、その過程で古くから住まう民、特にアラシカゲとの接触を持っていた、もしくは上述の古の神討伐の際、アラシカゲにも参戦の勅命が降ったとしても、飛躍した話ではない。 アラシカゲの神器の守護者としての立場と、倭寇と関係が深い愛洲氏も傘下に収めていることを踏まえれば、むしろ大陸勢力との接触がない方が不思議である。 このように、西洋式の火器が導入される以前から、アラシカゲは大陸式の火器の存在を知り、対火器戦術に加え自らも独自の武装を発達させていった。 そのことはアラシカゲの存在目的であった神器の守護にも大きく貢献していたと考えられる。
 では、日本で 「硝煙の時代」 が開幕した頃とほぼ同時期の世界では、どのようにして火器は広まっていったのか。



第2節 広がる西洋式火器 

1.アジアへの銃火器伝来
 10世紀、宋時代の中国で実用化された火薬兵器は、13世紀のモンゴル軍のヨーロッパ遠征により、西アジア、ヨーロッパ世界へと広がり、兵器としての注目を浴びた。 では、その火器がどのようしてアジア世界まで伝わって行き、誰が伝えたのかを探るのが本節の趣旨である。
 13世紀にモンゴルによる火薬の洗礼を浴びたヨーロッパでは、イタリアのフィレンツェで西洋式大砲が開発されたが、当時は暴発の多さと命中率の低さにより、その信頼性には疑問が投げかけられていた。しかし、1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落では、大型の大砲がその威力を遺憾なく発揮し、難攻不落の城壁を破壊したことが知られる。 この事実は、ヨーロッパでの火器製造熱を高めると共に、王侯達の貪欲な領土への野心も刺激することとなる。 1494年のフランス王シャルル8世のナポリ侵攻に端を期したイタリア戦争、1522年のオスマン帝国による聖ヨハネ騎士団のロードス島からの撤退等。 これらの戦役で活躍したのは改良を加えられた重火器であった (viii)。 これにより、対重火器用の戦術や城塞が建設され、戦争の激化と膠着度の高まり、そして 「商業」 の発展が刺激された。
 重火器が戦場の主として猛威を振るう一方で、持ち運び可能な銃火器も開発され、弓矢に取って変わり、戦場での主力兵器として活躍するようになる (ix)。 日本に伝えられた瞬発式火縄銃 (以下鉄炮) もその一つである。 16世紀に南ヨーロッパで開発されたこの銃は、当時インド・東南アジアの交易を巡り火花を散らしていた、スペイン・ポルトガル両勢力により同地域に伝えられた。 近年ではこの型式の銃が日本に伝えられたと言われるが、上述した 『鉄炮記』 の記述には伝来時期に矛盾が見られることから、ポルトガル人による日本伝来には疑問の声が上がっている。
 しかし、『鉄炮記』 には伝来に関する重要な記述も存在していることは否定出来ない。 その1つは、ポルトガル人と共に種子島に流れ着いたと言われる大明の儒生 「五峰」 の存在である。 この 「五峰」 は当時の倭寇の著名な頭目である王直の号として知られ、鉄炮伝来には倭寇勢力が関与した可能性が高いと考えられている (x)。 

2. パー二―パットの戦い
 では、日本への鉄炮伝来に対して、ポルトガル人の関与が低いとなると、倭寇と共に鉄炮を日本に紹介したのは何者であったのか?  
 これには、インドで起きたある出来事に注目する必要がある。 かつて西アジアに覇を唱え、無敵を誇ったオスマン帝国さえも一時壊滅させたティムール帝国は、後継者達の内部闘争により分裂を繰り返し、その子孫であるバーブルはインドに逃れた。 後にインドを統一することとなるムガール帝国を築き上げた彼は、彼の地に覇権を樹立するため、北インドのロディ朝と戦う必要があった。 1526年のパー二―パットの戦いである。 ロディ朝10万の大軍に対して、僅か1万の手勢で戦いを挑んだバーブルは、大砲・鉄炮をはじめとする銃火器部隊を、荷車を使った防壁を作り、集中砲火を浴びせた。 その結果ロディ朝は敗れ、バーブルはインドへの覇権の第一歩を踏み出した。 この戦いにおいて、バーブルに技術支援を行ったのは、ペルシアのサファヴィー朝と言われる。 サファヴィー朝はアナトリア領有をめぐりオスマン帝国と攻防を繰り返していたが、1514年のチャルディラーンの戦いにより、オスマンの火器部隊に主力の騎兵部隊を壊滅させられた。 以後、サファヴィー朝はオスマンと対抗するために、重火器に力を入れ軍事改革を行った。 アフガニスタン出身のバーブルはペルシアとの繋がりも深く、サファヴィー朝から銃火器を入手し、その時に技術指導を行ったのは、イギリス人技師であったと言われる。 筆者はこの技師をスコットランド・マッカラン家の者と考える。 

d0164702_17004257.jpg3. マッカランの野望  世界でも著名な軍事企業マーズ・インダストリーズを率いるマッカラン家は、15世紀スコットランド出身のジェームズ・マッカラン1世以来、武器製造を家業とし、陣営を問わす様々な勢力に武器を販売し、アメリカのスターク社と覇権を競っている。マッカラン家の公式記録 (xi) によると、チャルディラーンの戦いが起きた時に同家当主の座に就いたのは、ジェームズ・マッカラン3世、そしてパーニーパットの戦いの時期はジェームズ・マッカラン4世に該当する。 マッカラン3世は、ダ・ヴィンチが考案した装甲戦車を開発し、イタリア戦争が激化する戦場に導入したことが事跡として残り、同4世は 「半マイル先の敵の指揮官を抹殺可能」 の謳い文句で、遠距離用の銃火器を販売した。 現在でも解読に困難を極めるダ・ヴィンチ考案の兵器を開発する技術力とその販路を踏まえれば、西アジア・インド方面への鉄炮伝播に重要な役割を担ったことは否めない。 恐らく、日本・中国への販路拡張に野望を抱いたマッカラン家は、王直をはじめとする東シナ海の倭寇に武装を提供すると共に、彼らの協力の元、日本・中国にエージェントを派遣したと考えられる (xii)。
d0164702_17002957.jpg 第1節で検討したように、既に大陸からの諸勢力により日本内地への火器伝播の経路は出来上がっていた。 それにより、日本各地への 「鉄炮伝来」 は行われた。 なお、マッカランのエージェントは、武器販売のみならず各地の武将の下、軍事顧問としても活躍しヨーロッパ・インド等の戦術を導入したと考えられる。 パーニーパットの戦いにおけるバーブルのバリケード戦術と、1575年の長篠の戦いにおける織田軍による火器戦術の類似性は、この考えを裏付ける好事例と思われる。 このように、エージェント達は武器販売と共に戦いを激化させる任務も、担っていたと考えられる (xiii)。 マッカラン家はヨーロッパ式銃火器を西アジア・インドに販売し、東南アジアの倭寇を経由して日本に 「鉄炮伝来」 を行ったと考えられる。 マッカラン家が 「硝煙の時代」 の中核であったことは事実と思われる。


おわりに

 本論では、火器が日本に本格導入された時期を中心に、アラシカゲが現在までどのようにして生き残れたのか、また 「鉄炮伝来」 は誰によるものであったかを検討した。
 第1節では、火器を所持した大陸からの武装集団の日本流入を、不死の神々にまつわる戦いの伝承と共に検討した。 当時の明朝皇帝は道教の不老不死の考えに狂気とも言うべき執着を抱き、「蓬莱の島」 日本に不死の力を求めた。 不死の力をめぐり明朝の特務機関や倭寇等、大陸からの武装勢力が日本の山奥まで進出した。 その途中で大陸式火器も伝えられ、倭寇との関係が深いアラシカゲにも、その存在が伝わったとされる。
d0164702_17003781.jpg 第2節では、16世紀日本の戦場にて花形を占めた瞬発式火縄銃、所謂 「鉄炮」 の日本伝来について考察した。 従来の説では、ポルトガル人による導入が有力視されていたが、近年では東シナ海に活躍した倭寇がその伝播に一役買っていたこと、そしてマッカラン家による西アジア・インドへの販路拡張と共に、東南アジア及び日本に戦術と共に伝えられたことを検討した。  既に大陸式火器の存在 (恐らくはその構造) も熟知していたアラシカゲは、マッカランにより鉄炮が導入された際にも、いち早く入手し対西洋式火器への戦術並びに新たな武装を考案したと考えられる。 常に最新武装と戦術の研究に余念のない姿勢が、アラシカゲを現在まで存続させる原動力と言える。 マッカランはアラシカゲを含む、日本の諸勢力に兵器を売り、それを足掛かりに大陸にも販路を拡張しようとしたらしい。 しかし、その計画は遺憾にも挫折を余儀なくされた。
 まず、マッカランが思ったよりも早く、日本における戦乱が収拾されたこと、そして日本を統一した徳川政権が 「鎖国」 政策を取ったことで、武器弾薬を含む交易が極めて限定されたものになった。
 2つ目は、協力者であった倭寇の消失が挙げられる。明朝の朝貢貿易による圧力が倭寇の活動を活性化していたことを以前述べたが (xiv)、1644年における中国大陸の明朝の滅亡と清朝の勃興は、東シナ海の勢力図を塗り変え、結果海上勢力は一掃された。 徳川と清朝という 「陸の政権」 による海の管理が開始されたことにより、マッカランは東アジアへの販路拡張という計画を放棄しなければならなかった。
 3つ目は、ヨーロッパにおける戦争の激化である。戦乱が鎮静化しつつあった東アジアとは対照的に、ヨーロッパでは絶対王政の国家が勃興し、互いの領土・交易の利権を巡り血で血を洗う戦争を繰り返していた。 ジェームズ・マッカラン12世が武器提供を行った、1719年の四カ国同盟戦争、同 14世、15世が関与したアメリカ独立戦争はその最たる例と言える。 
 戦乱の世を生き抜いたアラシカゲとマッカランは、激化する現代の戦場にて、再度相見えることとなった。 両者の関係は世界に戦争がなくならない限り続いていくことだろう。  


[追記] 本論作成において、スプリングフィールド大学、マッカラン財団からの協力があった。 同大学学長のコブラ・コマンダー、財団当主のジェームズ・マッカラン24世両氏には、この場をお借りしてお礼を申し上げたい。
 そして、筆者に両氏を紹介していただいたJoefig氏のご帰還も、この場にてお祝いを申し上げておく。

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[註] 


(i) http://joefig.exblog.jp/18458304/
(ii) これは、同じく著名な忍者集団である甲賀一族の状況を考えれば納得が出来る。 旧日本軍の情報将校だった彼らの総帥は、第2次世界大戦終了直後に南方で殺害されたと言われ、その子孫である 「無面」 と称す本来であれば組織の長となる忍者は、アラシカゲの客人となっていた。 このことから、恐らくはアラシカゲよりも早い段階で甲賀は崩壊していたと、推測される。 しかし、現在でも個々の甲賀忍者は世界中の戦場で活躍していることを、ここで述べておく(http://joefig.exblog.jp/18425040/)。
(iii) 宇田川武久 『鉄炮伝来 兵器が語る近世の誕生』 (講談社、2013年)。
(iv) 女性であったと言われるが、その真相は今となっては不明である。
(v) 「シシ神」 と呼ばれるこの神は、人面獣身の姿を持ち、死すべき命を吸い取る存在でもあったと伝えられる。
(vi) 「山の民」と天皇家との関係は、網野善彦 『異形の王権』(平凡社、1993年)、同 『[増補] 無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』(平凡社、1996年) を参照。
(vii 岸本美緒・宮嶋博史[著] 『世界の歴史 (12) 明清と李朝の時代』 (中央公論社、2008年)
(viii) 戦争の方式変化は、様々な制度への変化も余儀なくされた。 マイケル・ハワード 『ヨーロッパ史における戦争』 (中公文庫、2010年) を参照。
(ix) この武装変革により、百年戦争でイギリス軍の主力兵器であった長弓は、時代遅れの骨董品になった
(x) 東シナ海における倭寇の活躍は、上田信 『シナ海域 蜃気楼王国の興亡』 (講談社、2013年) を参照。
(xi) http://joefig.exblog.jp/11207174/
(xii) 販路拡張の他にも、マッカランは16世紀に日本に発見された、石見銀山のヨーロッパに流れる銀の独占も狙ったとも考えられる。
(xiii) マーズ・インダストリーズには、「販路拡張」 を任務とする特殊部門が存在すると言われるが、この件に関してマッカラン家は否定している (http://joefig.exblog.jp/16977900/)。
(xiv) 註 (i) 拙論参照。

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 以上、プロフェッサーTOROによる “アラシカゲ一族と「硝煙の時代」” でおじゃった!
 TORO殿、またもかような玉著をいただき、かたじけのうおじゃる!
 平和は戦争から。 戦史を通じてこそ、真の平和が理解できよう。 それにしても、デストロの先祖はだいぶ昔から荒稼ぎしおって~~! 当大学にまだまだ寄付をしてもらわんといかんでおじゃる!

 ではまたごきげんよう! コ~~ブラ~~~!
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by joefig | 2013-12-20 18:43 | 設定探訪 | Trackback | Comments(0)
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