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The Pit

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ハズブロ社の 「G.I. ジョー」 に関するランダムな記事のブログです。

資料/『バービーと私』

 最近、亜紀書房刊 『バービーと私 着せ替えドレスを作り続けた半生記』 (2011年4月、宮塚文子、1,680円) という本を読んでみました。 日本のドール製造メーカーの当時の状況が知りたくなったためです。
 今回はその感想や当時の状況を記事にしたいと思います。

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「バービー」


 当ブログではハズブロのアクション・フィギュア 「G.I. ジョー」 の誕生について記事にしたことがありましたが (こちらの記事です)、その中で、「G.I. ジョー」 の誕生にはマテル社が1959年に発売した 「バービー」 の影響があったことに触れました。

 「バービー」 は、マテルの創業者エリオット&ルース・ハンドラー夫妻がスイス旅行に行った際、娘バーバラ ( 「バービー」 の名称の元になりました) へのお土産に購入したドイツの人形 「リリー」 を元に考案されたものでした。

 バービーは発売されるやたちまち大ヒット商品となり、女の子向け着せ替え人形を代表的するブランドとして現在も発売されています。


 今回取り上げた 『バービーと私』 は、日本でそのバービーの誕生に関わった宮塚文子さんが、当事者としてその開発の経緯を振り返るという、資料的にも貴重な内容となっています。

 また本書には、巻頭のカラーページにてバービー最初の22 アイテムの幻のプロトタイプの写真、本文中では宮塚さんが特に関わった#900番台のシリーズのワンポイント解説 「ドレス ピックアップ」 やアイテムを外注する際の細かい仕様が記載された企画書なども掲載されています。

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『バービーと私』 の感想


 著者の宮塚文子 (旧姓中村) さんは、著者略歴によると 1932年の生まれで、1957年に国際貿易に入社後、すぐにバービーのドレス担当となり、退社までドレス担当主任として従事し、1963年に結婚後、人形服専門の縫製会社 「宮塚縫製」 を立ち上げ (2002年に廃業)、「リカちゃん」 など着せ替え服製作の第一人者として活躍された方です。


 この本を読んでみてまず驚かされたことが、バービーの開発はそのほとんどが日本側で行われていたということです。
 マテルは企画やデザインを行い、人形や衣装・小物の製造は実際には国際貿易が担当していたのです。
 ただし、では実質的に日本側に丸投げしていたのかというとそれも違っており、そこには安易に妥協することなく本格的な製品を生み出したいというマテル側の熱意があり、国際貿易の社員だった著者の宮塚文子さんは、そうしたマテル側の姿勢や、当時の日本の企業とは大きく異なるアメリカ企業の社風からも刺激を受けたということが伝わってきました。

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バービーの開発事情


 ここからは、『バービーと私』 に記された情報を中心に、補足も交えつつ当時の事情を挙げていきたいと思います。

 1955年、アメリカのスーパーマーケットで日本製のブラウスが1枚1ドル発売されて爆発的に売れ、アメリカの繊維業界や縫製業者が圧迫されたという 「ワンダラーブラウス事件」 が起こりました。 これは戦後初の日米貿易摩擦とみなされています。

 「バービー」 の企画を始めたマテルは、箸を使う日本人の手先の器用さ、そして上記のように人件費が安くて繊維産業も盛んであったことから、人形の製造は日本で行うことに決め、1957年にマテルの調査研究・デザイン部門のジャック・ライアン (後に副社長) と日系二世でインダストリアル・エンジニアのフランク・ナカムラが日本を訪れました。

 デパートで各社の人形を調査した2人は、株式会社国際貿易が発売していたミルクのみ人形の、本体でなく衣装の品質に注目し、国際貿易に生産を依頼することにします。

 マテルは衣装のデザインも日本側に任せようとしていたようですが、2人の女性が描いたデザインを没にした後 (1点だけは商品化されたそうです)、結局マテル側でデザインを行なうこととなり、国際貿易にはそのマテル側デザイナーの助手として縫製のできる女性を雇うよう求めてきたとのことです。
 こうした経緯により、本書の著者である宮塚文子さんが 1957年に国際貿易に採用されました。

 当時の国際貿易の人物として本書に登場するのは、井上 清太郎社長 (創業者)、野田 文彦専務 (後に社長) 、輸出部部長の佐藤 守雄、輸出部課長の田中 勝 (後に社長) の各氏です。 


 1958年、マテルの副社長のシーモア・アドラとデザイナーのシャーロット・ジョンソンが来日し、以後、ジョンソンさんは1年間日本の帝国ホテル (フランク・ロイド・ライト設計の旧本館) にミシンを持ち込んで滞在し、助手となった宮塚さんは午前9時から夕方5時まで詰め、その後は国際貿易に戻ってジョンソンさんの指示を確認し、連日、終電で帰っていたそうです。


 日本での製造を決めたマテルは、単にコストを抑えるためではなく、コストを抑えた分を優れた品質に回すという方針だったため、国際貿易の皆さんもその姿勢に感銘を受けたそうです。
 とはいえ、既存のものとは異なる品質が求められる人形や衣装の製造は、メーカーではなく商社だった国際貿易にとっては未知の領域であり、その開発は試行錯誤であり、また多数の会社が関わったようです。

 バービーの人形の原型は、彫金家の鈴木幸平が石膏型で試作し、これをマテル側に見せて決定しました。

 ボディーの大量生産は、いち早くソフトビニール製の人形を作って国際貿易に売り込んでいた山一商店 (後にポニーに改名) の山崎 精一に依頼。 手足や頭は精巧さを求められる義歯の製造法が使われ、胴体の金型は自動車部品の工場に協力を求めたのだとか。
 足の長さが揃わないという不良品発生率が高かったため、儲けは人形のほうではなく衣装やアクセサリーの販売で利益を出す方針となり、この不良品発生が2年ほど続いた後、射出成型が導入されました。
 各工場からのものを検査しパンフレットと共にパッケージに詰めて出荷するのはサンビ化学が担当したそうです。
 衣装の工場は、群馬県太田市にあった野村メリヤス (後に野村バービーと改名) や横須賀メリヤスの名が本書に上がっています。


 バービーの最初の人形は100万個の注文があり、生産が間に合わなかったために生産国である日本での発売はしばらく保留され、1964年になってようやく日本で正式発売されたとのことです (宮塚さんは日本発売を1962年と記述されていますが、本書にある解説によるとそれは日本在住のアメリカ人向けに販売されていた状況についてで、正規には1964年が正しいようです)。
 
 宮塚さんは1963年に結婚で退社した後、人形服専門の縫製会社 「宮塚縫製」 を立ち上げ、国際貿易のバービーの衣装の下請けをしていたとのことです。

 バービーの日本発売より前にポニーの山崎精一氏が亡くなった後は、ボディーは国際貿易の子会社である協和化工が引き継いで製造しました。
 協和化工は後にサンビ化学と合併して協和化学となりました (※この会社は後にカシオ計算機に吸収されたようです)。

 また、そのほかにもボディーの生産は中嶋製作所やセキグチ (※後の1974年に 「モンチッチ」 を発売) にも依頼されました。
 バービーに関わった中嶋製作所は、1966年に 「スカーレットちゃん」 を発売することになります。

 また、 1967年になるとタカラから 「リカちゃん」 が発売されましたが、これについては本書にも国際貿易の田中 勝氏の言葉として、 「バービー技術やノウハウを受け継ぎ、いろんな意味でいちばん利用したのはタカラさんでした。 タカラは私たちの動向をずっと見ていました」 という記述もありました。

 なお、これは本書にある記載ではありませんが、1966年に日本は世界一の玩具輸出国となっています。

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その後のバービー


 1969年の第二次資本自由化を受け、マテルは国際貿易との合弁会社である国際マテル社を設立。
 マテル創業25周年にあたる1970年には 「ツイスト・バービー」 や 「リビング・バービー」 (日本名はイキイキバービー) を発売しています。
 しかし、1971年にドルショックでアメリカが不況となると、バービーの生産拠点は日本よりも安価に出来る韓国に移りました。 その後のバーヒー生産はアジア各地に移転していくことになります (※ちなみに1972年には香港が世界一の玩具輸出国となりました)。 

 バービーの生産が日本から海外に移ってしまったため、宮塚さんの宮塚縫製の仕事もタカラの 「リカちゃん」 やセキグチの 「モンチッチ」 の衣装づくりに変わっていったそうです。


 生産が日本を離れた1971年以降、日本でのバービーはタカラの 「リカちゃん」 の発売に打撃を受けたこともあって日本市場から撤退しており、1974年にマテル・ジャパンが設立された際も、「ビッグ・ジム」 などが発売されたもののバービーは発売されなかったようです。

 1977年になって、バービーは 「すてきなバービー」 として日本に再上陸しました。 この年にマテルはバンダイと業務提携しています (ただしすてきなバービーのボックスにある会社名は 「マテル」 のみです)。 しかし、結局販売は伸び悩んだようです。
 この頃はバービーの生産は台湾、香港、フィリピン、マレーシア、インドネシアへと広がっていました。


 バービーの日本展開に大きな動きがあったのは1982年で、タカラから日本向けにアレンジしたバービーが発売されました。
 この通称 “タカラバービー ” は大ヒットしましたが、1986年、マテルからライセンス更新を拒否されたタカラはこれを 「ジェニー」 と名を変えて発売。
 一方のマテルはバンダイと業務提携を結びマーバ・コーポレーションを設立し、第二の日本版バービーを企画しましたが、それがあまりにも 「ジェニー」 に似ていたことから、タカラがアイディア盗用を理由に製造・販売停止の仮処分を東京地裁に申し立てる事態となりました。
 結局マーバがデザインを変更して和解が成立し、通称 “マーババービー ” が発売されることになります。

 “マーババービー ” は1989年にマーバの解散で終了し、バンダイは新たに “バンダイバービー ” を発売したものの 1991年にマテルとのライセンスが切れて終了。 現在、日本でのバービーはマテルの日本法人マテル・インターナショナルが販売しています。


 なお、フィギュアやドールを巡るタカラとバンダイの競争については、いずれ機会を改めて記事にしてみたいと思います。

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d0164702_18530606.jpg国際貿易


 創業は1918年 (大正7年)。 創業者は井上清太郎氏。 当時、ヨーロッパは第一次大戦終結直後で製造業が回復せず、日本製品の輸出額が一気に伸びた時期でした。
 1960年代にマテルのバービーを扱い、1965年に野田 文彦、1976年に田中 勝、1995年に引田 守の各氏が社長を歴任。  現在の社長は小林 芳木氏。
 現在の同社はダイキャスト、プラスチック製モデルカー・モデルエアプレーンの輸入販売・製造に携わっているようです。
http://www.kokusaiboeki.co.jp/index.php

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 ハズブロの 「G.I. ジョー」 も、初期の衣装には日本製のものがありました。 この時期の日本が果たした役割は大きかったんですね。

 さて、次回は何の記事にするか未定です。 それでは!

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by joefig | 2014-09-14 00:00 | 資料 | Trackback | Comments(0)
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