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The Pit

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ハズブロ社の 「G.I. ジョー」 に関するランダムな記事のブログです。

資料/第442 連隊戦闘団

 このところ日本絡みの記事を続けていますが、今回は第二次大戦期におけるアメリカ軍の日系人部隊、第442 連隊戦闘団についての記事です。
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 上の画像は12インチのG.I. ジョー・クラシック・クレクションの442nd インファントリー ニセイ・ソルジャー (1998年) のボックス・アートより。




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日系人部隊と 「バンザイ突撃」


 G.I. ジョー・ニンジャの 「バンザイ」 の記事を書いた後、太平洋戦争中の 「バンザイ・アタック」 について一言ぐらい触れておいたほうがよかったかな? などと思い、ウィキペディアで 「バンザイ突撃」 について調べていたところ、こんな記載があるのを発見しました。

 以下、日本語版ウィキペディアの 「バンザイ突撃」 の項より。

   米陸軍第442 連隊戦闘団における 「バンザイ突撃」
      第二次世界大戦の欧州戦線に於いて、日系人のみで編成された米陸軍の 「第442連隊戦闘団」 は、日本語
     の 「バンザイ」 を含む各種の雄叫びを上げての突撃を実行した。 ただし海外で認知されている 『進退窮まった
     部隊が最後の戦術として行う自殺的な突撃』 を意味する 「バンザイ突撃」 とは別物で、通常戦術としての、
     鬨の声を上げての白兵突撃であった。 用いられた言葉も 「バンザイ」 だけではなく、ピジン英語で 「死ね」
     という意味の 「マケ」、日本語の 「バカヤロー」 など、個々の兵士の叫び声がこだまし、その絶叫は近隣の
     村にまで響く程であったという。 一説には1943年11月3日のナポリ南方、ボルツレノ川渡河作戦で、ドイツ軍
     狙撃兵に対しスコップを武器として突撃をかけたのが最初とされる。 この時は個人による突撃に続いた小隊
     規模のものであったが、後に戦闘の決着をつける着剣しての白兵突撃が中隊単位でも行われるようになった。
     最も日系部隊に限らず最後の突撃は一般的に見られたが、特にブリュイエール (ブリエラ) の解放を巡る戦い
     でこの戦法が多用され、戦場となった丘は記録者により 「バンザイヒルズ」 と命名され、アメリカ国務省に
     報告されたという。


 記載にある通り、有名になった 「バンザイ・アタック」 のニュアンスとは異なるとはいえ、日本兵だけでなく、日系アメリカ人兵士たちも 「バンザイ」 と叫んでいたんですね。

 昭和の日本人にとって、「バンザイ」 は 「Yo Joe !」 みたいなものだったんですね。 


 さて、今回はその日系アメリカ人部隊を取り上げたいと思います。

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G.I. ジョーとなった第442 連隊戦闘団


442nd インファントリー ニセイ・ソルジャー (1998年)/クラシック・コレクション (WWⅡ フォーセス)
 442nd Infantry Nisei Soldier (#81430/81473) ケナー社
d0164702_22401757.jpg素体:
   ヘッドはおそらく新規造型。
   ボディーはクラシック・コレクション素体。
付属品:
   ドッグ・タグ
   ヘルメット    ネッティング    ウール・ニット・キャップ
   シャツ    トラウザー    コンバット・ブーツ
   スカーフ    ウェブ・ベルト    ウール・オーバーコート
   アモー・ポーチ×2    キャンティーン    キャンティーン・ホルダー
   ファースト・エイド・ポーチ
   無線バックパック    ダッフル・バッグ
   ライフル及びストラップ    手榴弾×2    
説明文:
442nd インファントリー(※第442 歩兵部隊)
 「我が国建国の原則はアメリカニズムである。それは精神と心の問題であり、アメリカニズムはこれまで種族や血統の制限を受けたことはない」──フランクリン・D・ルーズベルト

 「日系の忠実なアメリカ市民からなる戦闘団を組織するという陸軍省の提案を、私は全面的に承認する」。 1943 年2月1日に陸軍省が2世 (日系アメリカ人) 戦闘団の編成を指示した時、フランクリンD.ルーズヴェルト大統領はこう語った。 それは全ての日系アメリカ人とアメリカ軍にとって大きな転機となった。 第442 戦闘大隊の物語は、歴史上最も素晴らしい急襲兵員に数えられることとなる強襲歩兵連隊の尋常ならぬ任務を示すものである。
 1941 年のパール・ハーバー爆撃の後、アメリカ政府への忠誠が 「疑わしい」 と考えられた2世は 「4-C 敵性外国人」 に分類された。 彼らは家を追われ、捕虜収容所に収容されたが、その罪は彼らに日本人の血が流れることだけだった。 彼らからは武器を携行する権利と軍に勤務する適合性が取り上げられた。 全部で11 万人の日系人 (うち7万人はアメリカ生まれの市民だった) が、アメリカ各地に散らばる捕虜収容所に収容された。 しかし、1943 年2月、二世下士官兵と白人の士官からなる特殊な完全の日系人部隊が創設され、歴史は正しい方向へ向かい始めた。
 第442 戦闘部隊は陸軍省の文書に従って編成された。 二世選抜徴兵制度が改訂され、陸軍省は志願兵の要請を出した。 ハワイでは、1,500 人の要請に対し1万人以上の志願兵が怒涛のように押し寄せ、一方本土においては、有刺鉄線の収容所の中から何百人もが志願した。 歩兵中隊と砲兵中隊に配属された新兵たちは、5月10日にミシシッピー州のキャンプ・シェルビーで基礎訓練を始めた。 1944年3月に首席補佐官ジョージ・C.マーシャル将軍が部隊を観察し、第100歩兵部隊と合併して単一の部隊を構成して海外へ転属となった。
 北アフリカとヨーロッパにおける彼らの軍事部隊としての記録は並々ならぬものであった。 “ ゴー・フォー・ブローク! (※当たって砕けろ!) ” というスローガンを採用した彼らは、収容された親族を故郷に残してよく戦った。 彼らの平均サイズは5フィート3インチ (※約160cm)、125ポンド (※約57kg) というものであった。 彼らはサイズでは劣っていたものの、それを精神で補った。 ほぼ2年に及ぶ激しい戦闘の後、第100/第442部隊はこの戦争でアメリカ軍史における最も高い勲功のあった部隊となった。 彼らはヨーロッパにおける7つの主要な軍事攻勢で戦い、2つの上陸拠点を攻撃し、潜水艦を拿捕した。 フランスでは、彼らはブリュイエールを解放し、「失われた大隊」──ドイツ領域の中でほぼ1週間包囲されていた275 名のテキサス歩兵を救った。 1945年の晩春、第522 野戦砲兵大隊──第442 部隊の一部──はダッハウから囚人を解放する最初の連合部隊に加わっていた。 数日後、ドイツを抜けて南に向かった第552 大隊は、ダッハウ強制収容所からバイエルン・アルプスに向かって行進を強いられていた5,000 名以上のユダヤ人捕虜の救助を支援した。
 戦争での彼らの進展は勇気と犠牲に彩られる:部隊の勇気は、1万8,000 を超える個々の受章と大統領部隊勲章を得た。 「パープルハート (※名誉負傷賞) 大隊」 として知られるように、700 名以上の人員が戦死し9,500 名がパープルハートを受章した彼らの苦しみは、アメリカ軍史上最多の死傷者割合となった。 合計すると彼らは1万8,143 の勲章を与えられたが、それには52 の陸軍殊勲十字章、1つの殊勲章、560 のシルバースター賞 (樫葉追加が28)、22 の勲功章、4,000 のブロンズスター章、12 の軍功章、9,486 のパープルハート章が含まれている。
※このトイの後にも2世部隊の名誉はさらなる見直しを受け、2000年の名誉勲章への格上げの事例や2010年の議会名誉黄金勲章の授与を始め、現在では勲章の合計数は増加しています。
 第442及び第100 “ ゴー・フォー・ブローク ” RCT 部隊の編成と成功は2世たちのアメリカ人としての未来に関わる重要な出来事となった。 第二次世界大戦での群を抜いた犠牲により、彼らはアメリカの忠実な市民としての決定的な勝利を勝ち取った。 第100/第442部隊に敬意を表した1945年のホワイトハウスの式典において、トルーマン大統領は2世兵士の戦時の業績についてこう述べた。 「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した」。






ハワイアン・テリトリアル・ガード (2001年)/アルファ (ストア限定)
d0164702_19014832.jpg Hawaiian Territorial Guard  (日系ハワイ人#81703/81160)
 トイザらス限定。 パールハーバー・コレクションのステッカーはないが、説明文はパールハーバー・コレクションのもの。
 真珠湾攻撃時、日系ハワイ人のハワイ准州兵 (ハワイ州兵の前身)。
素体:
   ヘッドはクラシック・コレクションの 442nd インファントリー:ニセイ・ソルジャー (1998年) から。
   ガン・ホー・グリップ。
付属品:
   ドッグ・タグ
   カーキ・ユニフォーム上下    ブーツ×左右
   キャンペーン・ハット    HTG ブラサード (※腕章。 HTG の表記あり)
   ウェブ・ベルト    アモー・ポーチ×8個
   キャンティーン
   スプリングフィールド・ライフル
   バヨネット    スカバード (※シース)
説明文:
パールハーバー:ザ・ハワイアン・テリトリアル・ガード (※ハワイ準州兵)
 真珠湾攻撃の恐怖と混乱の間、予測だにしていなかった海軍基地に爆弾が雨のように降り注ぐ時でも、ハワイ準州兵は高度な警戒に就いた。 島の防衛で軍の部隊の増援を命じられた準州兵は、無数の英雄的行動を示した。 その短い歴史の瞬間の間、時は止まったかのようだった。 爆発と機銃掃射する飛行機は、のどかな南太平洋の要塞を燃える残骸と負傷した人々の非現実的な光景に変えた。 その余波で、準州兵は敵の侵略に備えて島のパトロールに長い時間を費やした。
 ハワイ準州兵の男たちは誰よりも攻撃に怒った。主として日系アメリカ人から成る彼らは、国と名誉に対する襲撃に心から報復を望んだ。1942年5月26日、ハワイ緊急大隊が編成されたことで彼らはその機会を手に入れた。主として日系アメリカ人のハワイ準州兵から成る新しい大隊は第100歩兵大隊として活動開始し、そのモットーは「真珠湾を忘れるな!」だった。第100大隊は訓練で高得点を記録し、すぐに日系アメリカ人の志願兵のより大きなグループ、第442連隊が編成された。その規模から、第442連隊はアメリカの歴史上最も勲章を授与された部隊となった。決して3,000名を越えることのなかった兵士たちの最大の補足物として、勇敢な行為に対する1万8,000を超える勲章と9,400を超えるパープルハート章が授与されたのだ。
 パールハーバーの広範な損害と命の犠牲にも関わらず、日本軍は太平洋艦隊やその基地の破壊に失敗した。 海軍工廠の修理工場、武器庫とその供給品は目標とはならず、全部で3隻のアメリカ軍の空母は攻撃時は海に出ていた。 アメリカ軍は基地の修理と再建のために再編成され、太平洋におけるアメリカ軍の勝利の中枢となった。 沈没したアリゾナの上には記念館が設けられ、回収されたメインマストには高らかに国旗がはためいている。 記念館はその建造物自体が太平洋戦争を象徴するものであり、低くなった中央部は初期の失敗を、持ち上がった両端は究極の勝利を象徴している──勝利は犠牲失くしてはなしえなかった。 パールハーバーで戦ったのは勇敢かつ決意ある者たちだったのだ。


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第442 連隊のエピソードなど


 ざっくりしたことは上記のトイの説明文に記載されていますが、それ以外の第442 連隊の印象的なエピソードなどを以下に記しておきたいと思います。


“ゴー・フォー・ブローク! ”
 第442 連隊のモットーである “Go for broke! ” は 「当たって砕けろ!」、「死力を尽くせ!」、「撃ちてし止まん」 といった意味合いで、元来はギャンブル用語で有り金すべてをつぎ込むことを意味するハワイの用語 (ピジン英語) 。
 1951年には映画のタイトルにもなった (邦題は 『二世部隊』 )。
※ギャンブル用語という点は、スネーク・アイズというコードネームにも通ずるものがありますね。


東条英機からのメッセージ
 開戦直後、東条英機はアメリカの日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世にわざわざ次のようなメッセージを送った。
      「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。
      なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり」。


「失われた大隊」
 彼らの指揮官であった、第36師団長のジョン・アーネスト・ダールキスト John Ernest Dahlquist 少将は大柄な男で、アイゼンハワー元帥には気に入られていたものの前線での実戦経験に乏しい指揮官だった。
 ある時彼は、功を焦ってか、フランスのボージュの森で第34 師団141 連隊第1大隊、通称 「テキサス大隊」 に無謀な進撃を命じた。 案の定、第1大隊は孤立してドイツ軍に攻囲され、その救出は困難として 「失われた大隊」 と呼ばれ始めた。
 この救出に第442 連隊が駆り出されることになる。
 その時彼らは敵の包囲網から戻ってきたばかりでろくに休養も取れず、しかも証言によれば “任務 ”の内容を知ったのは後のことだったという。
 結果的には彼らの活躍により救出は成功するが、ダールキスト少将の立て続けの前進命令に連隊の受けた損害は増加し、第1大隊211 人を救出するために161 人が死亡、42 人が行方不明、2,000 人以上が負傷するという激しいものだった。 この戦闘は後にアメリカ陸軍十大戦闘の1つとして記録されている。

 この激戦から数日後にダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、少将が 「部隊全員を整列させろといったはずだ」 と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が 「目の前に並ぶ兵が全員です。 残りは戦死か入院です」 と答えるとダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかったという。 第36師団編入時には約2,800 名いた兵員は1,400 名ほどに減少していたが、これは前代未聞の損耗率である。


キム・ヨンオク (金永玉、김영옥、Young-Oak Kim)
 第442 連隊戦闘団第100 歩兵大隊の一員としては唯一の朝鮮系アメリカ人。 最終階級は大佐。
 フランス及びイタリア戦線に加わって活躍。 後には朝鮮戦争にも従軍し、現在の朝鮮半島の国境線を形作るのに最も大きな功績を果たした人物の1人に数えられている。 殊勲十字章を始めとして、シルバースター章、勲功章、ブロンズスター章をそれぞれ2度、パープルハート章を3度授与されたほか、フランス政府からのレジオンドヌール勲章と戦功章、韓国政府からの武功勲章も含めて、全部で19 の勲章を授与されている。
 第100 歩兵大隊に配属された際、当時日本の統治下にあった朝鮮人のキムと日系人兵士との間に摩擦が生じることを懸念した大隊長が彼に別の部隊へ異動することを打診すると、キムは 「ここには日本人も朝鮮人もいません。 我々は皆アメリカ人であり、同じ目標の為に戦っているのです」 と言って頑なに異動を拒んだという。


叙勲
※トイの説明文にもある通り、第442 連隊は多数の勲章を授与されていますが、その中で特に以下の2つの勲章について記しておきたいと思います。

 名誉勲章 (議会栄誉章):21個
   アメリカ軍における最高の栄誉。
   セラヴェッツァ近郊での戦いで数々の殊勲をあげ、1945年4月5日、友軍をまもるために手榴弾の上に自らの体を
   投げ出して戦死したサダオ・ムネモリ上等兵が受章。 後の1998 年になってジョー・M・ニシモト上等兵が授与。
   さらに、殊勲十字章のうちの19 個が名誉勲章に格上げされた。
   第二次世界大戦における名誉勲章の授与数は464 個だが、うち21 個が第442 連隊に与えられている。

 議会名誉黄金勲章:1個
   アメリカ合衆国で民間人に与えられる最高位の勲章。
   2010年10月5日、バラク・オバマ大統領により第100 歩兵大隊と第442 連隊戦闘団の功績に対し授与された。


現在
 第442 連隊自体は1969 年に解体されたものの、そこに含まれていた第100 歩兵大隊は予備役部隊として現存している。 
 現在のアメリカ陸軍では、442 連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程となっている。

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 以上、第442 連隊戦闘団についてでした。
 最初に志願した4,000 名は平均して2.5 回戦地に送られているため、全体の死傷率は314 %にも上ったそうです。 凄まじい話ですね。

 この日系人部隊についての記事、もう一つネタがあるので次回も続けたいと思います。
 それでは!

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by joefig | 2014-07-09 22:35 | 資料 | Trackback | Comments(0)
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