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The Pit

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ハズブロ社の 「G.I. ジョー」 に関するランダムな記事のブログです。

設定探訪/レッド・ニンジャ達の存在に関する一考察 (寄稿)

ごきげんよう、諸君! 余がスプリングフィールド大学最高学長コブラ・コマンダーでおじゃる!

本日は、栄えある国際歴史学会議がここスプリングフィールド大学で開催されることをたいへん嬉しく思う!
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さて、開催にあたり基調講演として、当大学の客員教授でもあらせられるTORO 氏から、「レッド・ニンジャ」 に関する最新の知見を発表していただくことになったでおじゃる!



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──特別寄稿──

「レッドニンジャ達の存在に関する一考察」                                                       
                                       TORO (スプリングフィールド大学客員教授)

はじめに

設定探訪/レッド・ニンジャ達の存在に関する一考察 (寄稿)_d0164702_15221659.jpg「レッドニンジャ」 達は 「G.I.ジョー:ARAH ニンジャ・フォース/バトル・アックス」 (1993年発売) のドライバーとして登場した。 その設定は非常に謎めいており、特に 「15世紀に中国を震撼させたニンジャの名門ノ-カン-ドー」、「スシの戦い」 の2項目は、彼らの正体を深い霧の中に包み込んでいる。 ここではっきりしているのは、コブラコマンダーに雇われた傭兵 (そして変質者と見紛う装束) という点のみである。
 日本のG.I.ジョー考察に関しては、近年joefig、NOR 両氏による物語背景の検証で多大な成果を挙げている。 本稿では、両氏の成果を踏まえると共に、上述した謎めいた2点の設定から 「レッドニンジャ」 の正体に関して、可能な限り考察していくものである。


第1節 北虜南倭の時代

1.明朝の成立。
 彼らは 「いつ」 「どこ」 で 「なに」 をしていたのか。これに関して分かるのは、「15世紀に中国を震撼させたニンジャの名門ノ-カン-ドー」 の記述、そしてjoefig氏の研究により、チベットとの関連が明らかになっているのみである。 では、彼らが活躍した15世紀中国がどのような状態であったのか、そしてそこに至るまでどのような経緯をたどったのかを、先ずは見て行く必要がある。
 1271年から約90年に渡り中国を支配した元朝は、ユーラシア大陸を制覇した、モンゴル帝国の宗主国であると共に、その世界帝国の中枢でもあった。 しかし、その末期には天候不順による不作、宮廷内部での争いや無理な土木工事による民衆の疲弊・不満が原因により、秘密結社白蓮教を主体とする紅巾の乱が勃発、中国全土を席巻した。
 その後、紅巾の乱の指導者の1人、朱元璋が勝者となり、1368年に南京を首都とする明王朝が成立した。 この明王朝統治下の中国こそが、レッドニンジャの遠祖 「ノ-カン-ドー」 が跳梁跋扈した時代にあたる。
 朱元璋 (以下洪武帝) は即位後に、皇帝権の確立のため、白蓮教徒の大量粛清を行ったが、その中で皇太子が死去。 1398年の洪武帝の死去に伴い即位した皇太孫朱允炆 (以後建文帝) は、当時燕京 (現北京) に駐屯していた洪武帝の4男である朱棣により攻撃され、1402年に南京は陥落し帝位を簒奪されてしまう (i)。
 甥から帝位を奪い、即位した朱棣 (以後永楽帝) は、建文帝に仕えていた官僚群を信頼せず、即位以前から仕えていた宦官達を信任するようになる (ii) と共に、積極的な対外政策を展開して行く。 その例としては、宦官鄭和による南洋諸国への大遠征、そしてモンゴル高原への遠征が挙げられる。

2.「北虜」の脅威。
 白蓮教徒の乱で中国の統治権を失墜した元朝は、モンゴル高原に撤退し 「北元」 と称され一定の勢力を温存していた。 しかし、元朝の初代皇帝フビライの子孫を支持する 「モンゴル」 と、彼とモンゴルの大ハーンを争った実弟アリク・ブケの子孫を支持する 「オイラト部族連合」 との確執があり、その勢力は安定しなかった。 永楽帝は、その間隙を突き5度に渡る遠征を行ったが、決定的な勝利を得ることはなかった。
 ここで、注意しなければならないのは、明朝の対外政策である。 明朝は初代洪武帝の意向により、中国に臣従し、その爵位を授けた国とのみ交易を行う、「朝貢貿易」 体制を取っていた。 このことは、他国への干渉を極力最小限にするという意味も含まれ、永楽帝の積極的な対外政策は明らかに国是と反している。 永楽帝のモンゴル遠征の目的は、北元を倒し、中華皇帝と共にハーン位を兼ねることで、名目ともに元朝の後継者を目指すためだったとされる。
 その後、モンゴルとの間で朝貢貿易が開始され、両者の交流が行われたが、永楽帝の曽孫にあたる正統帝は、朝貢貿易の制限 (iii) と共に宦官王振の要請により、1449年にモンゴルへの親征を行ったが、敗退し捕虜になるという不祥事が起こった (ⅳ)。
 その後、モンゴルを一時的に統一したダヤン・ハーンの孫であるアルタン・ハーンの時代では、明朝と和議が結ばれ、アルタン・ハーンには 「順義王」 の爵位が与えられると共に、本格的な交易が開始され一時の安定を得た。 しかし、明朝の財政難から交易の規模が縮小されるようになると、モンゴル側の侵入が行われるようになる。 このような、明朝側のモンゴルへの攻撃と、その侵入による 「北虜」 という。

3.「南倭」の形成。
 北方ではモンゴルとの戦闘が繰り広げる一方、中国の南方沿岸部では 「倭寇」 と称される海賊による被害が猖獗を極めていた。 この原因には先に述べた明朝側による 「朝貢貿易」 体制が原因となっている。 元代では民間商人の海外との交易には制限はなく、盛況を極めていた。 しかし、先に述べたように、明代では 「朝貢」 関係のない国とは交易をしないのが国是であった。 これには、洪武帝のライバルであった張士誠や陳友諒といった群雄達が、海外交易により財源を得ていたのが要因とされる。 特に、日本との交易は厳禁とされた。 中国・日本双方の商人達は、法網を掻い潜り密貿易を継続していたが、明朝側の摘発により密貿易の本拠地が壊滅したため、武装集団としての 「倭寇」 が成立した。彼らは密貿易に加え、中国・朝鮮沿岸部への略奪を繰り返し、明朝側の悩みとなり、日本側へ倭寇鎮圧の要請を出していた。
 当時の日本は南北朝の分裂時代 (v) で、九州に割拠した南朝側の懐良親王は、「日本国王」 として建文帝からの封爵 (ⅵ) を得ていた。北朝側の足利幕府は、懐良親王が明朝側の援助を得ることを恐れ、今川了俊指揮の下、数度の攻撃を行い、1392年に南北朝の統一と共に、九州は北朝側に平定された。
 足利幕府3代将軍の義満は、財政困難の打開と天皇を超越した権威を得るために、明朝への朝貢を開始。 当時の皇帝であった建文帝は、朝貢国の増加による権威拡大と、倭寇の鎮圧を図っていたが、日本の朝貢は正にうってつけであった。 こうした明朝・足利双方の利益が合致し、1401年に義満は 「日本国王源道義」 (ⅶ) として封爵され、1404年に勘合符を使った、いわゆる 「勘合貿易」 を開始した。 日本側は明朝側の要請に従い、倭寇を弾圧しその活動に一旦は終止符を打った。 しかし、1467年に起きた応仁の乱による足利家の衰退後、再び倭寇が活動を再開すると共に、勘合貿易の実権は細川・大内の両守護大名の手に移り、両家はその権益を巡り対立を深めていった。 そして、1523年に勘合符の所有権と明への正使派遣の問題がこじれたため、大内側は当時の交易港であった寧波にて、現地の役人を拉致・殺人、ならびに略奪等の狼藉を働いた (ⅷ)。 この事件の後、明朝側は日本に対する警戒を強め、貿易統制が行われようになる。この貿易統制で打撃を受けた中国側の商人を中核とし、密貿易および日本人を引入れ、再び 「倭寇」 勢力が形成され、当時の中国側の年号から 「嘉靖の大倭寇」 と言われる事態にまで事態は深刻化した。 これらが所謂 「南倭」 と称される問題であった。
 本節では、レッドニンジャ達の遠祖である 「ノ-カン-ドー」 達が存在した、15世紀中国及び、当時の国際環境についての概略を述べた。 14世紀の後半にモンゴルの元朝が中国から撤退し、その後成立した明朝は、朝貢国とのみ交易を許可する一種の鎖国体制を国是とした。 しかし、明朝歴代皇帝は、モンゴルへの攻撃や朝貢が禁止される日本への封爵等、その国是に矛盾する政策が多かった。 その矛盾は朝廷内で宦官の権限拡大と官僚群との対立も絡み、深刻なものへとなっていく。 また、民間の商人達は 「朝貢貿易」 に反し、密貿易を行うと共に、日本側の商人・武装勢力と結合。 「倭寇」 勢力が形成され、中国・朝鮮沿岸部を中心に略奪を行った。 一方、14世紀末に南北朝の統一を迎えた日本では、足利義満による朝貢体制への参画が行われ、「日本国王」 として封爵され、倭寇の鎮圧に乗り出した。 こうして、陸上国家による 「海」 の統制が一旦は成功したかに思えたが、明側はモンゴル戦役の負担の増大、そして日本側は応仁の乱による足利家の権威の低下と国内の混乱により、「海」 への統制を思うに任せなくなった。 そして、15世紀の後半から再び倭寇が発生するようになり、「嘉靖の大倭寇」 にまで深刻化する。「ノ-カン-ドー」 が活躍した時代は、陸上国家による 「海」 の統制と、その反動が招いた 「激流」 の時期であったといえる。
 では、中国大陸において彼らはどのように活躍していたのか。


第2節 「ノ-カン-ドー」 の時代

 本節では、「ノ-カン-ドー」 が何故中国にやって来たのか、そしてその後はどうなったのかを考察していく。
 前節でも述べたように、「ノ-カン-ドー」 が活躍した15世紀中国は、北方の 「草原」 と南方の 「海」 を中心にその流動化が活発化していた。 そして、国際環境もそれに影響を受け、東アジア全域がその渦に呑み込まれていった。 
 joefig氏はNOR氏との議論の中で、レッドニンジャの本流と考えられる 「嵐影」 軍団が、時の天皇 (後白河上皇と推定) から、アマテラスの宝玉を託された一族としている。
 そして、15世紀に、嵐影流を学んだ伊勢国の武将愛洲氏が、分派である愛洲影流を開いた。 一般には嵐影流とその宗家の存在は秘匿されていたので、愛洲影流は単に影流 (陰流) と呼ばれるようになった。 これが兵法三大源流のひとつとされる陰 (かげ) 流であると、同氏は考察している。 陰流の開祖とされる愛洲久忠は、「平沢氏家伝文書」 によると、大陸まで足を延ばしたことがあると言われる。 では、彼は何故渡航したのか。これには倭寇との関係が考えられる。 
 前節で述べたように、15世紀における東アジアの 「海」 を巡る国際情勢は流動化が激しくなり、安定を欠きつつあった。 その一因として、日本での応仁の乱以後の政情不安により、「海」 への統制まで手が回らなくなったことが挙げられる。 その当時の日本国内は、細川氏をはじめとする有力守護大名同士の勢力争い(ⅸ)、領国内での政変等が頻発していた。 愛洲久忠が分派を許された理由は、無論その鍛錬の賜物でもあるだろう。 しかし、日本国内の政情不安定を鑑みて、「嵐影」 軍団が天皇より託された神器の守護が、困難になることを予測したのではないだろうか。設定探訪/レッド・ニンジャ達の存在に関する一考察 (寄稿)_d0164702_1545085.jpg 
 そして、その神器が複数存在しているならば、なおのことである。 『G.I.ジョー』 第2シリーズの第27話 「剣」 では、G.I.ジョーとコブラ忍軍が、謎の 「運命の剣」 をめぐり争奪戦を繰り広げ、最後はスネークアイがその剣を膝で叩き折り終結させた。 常軌を逸した威力を持つと思わしき、この剣の詳細については、何も述べられることはなかったが、スネークアイの技術が常人をはるかに上回ったとしても、人間一人の手でアッサリと破壊されたこの剣は、何らかの模造品ではなかったかと筆者 (TORO) は考える。 そして、そのオリジナルこそが 「草薙剣」 であったと想定される。 これらの神器を守護するために、「嵐影」 宗家は倭寇との関係も強く渡海経験もあった愛洲久忠に、複数あった神器の一部の守護を委ねるために、分派を許したと想定できるのではないだろうか。 そして、陰流一派は 「倭寇」 として中国大陸に渡り、安息の地を求め各地を転々とすると共に、当時の中国で起きていた鄧茂七の乱をはじめとする、暴動・反乱鎮圧のために明朝側に雇われた。また、明朝の弾圧により地下に潜った白蓮教を中心とする反政府組織との接触も同時に行い、裏社会での地盤も築き上げていた。日本刀 (神器の模造品か?) を振るった、縦横無人の活躍が影で語り継がれるようになった彼らは、「能砍刀」(néng-kǎn-dāo) と呼ばれるようになり、それが訛って 「ノ-カン-ドー」 となったのではないかと思われる(「砍」は「叩き切る」の意味)(x)。 そして、かつてG.I.ジョーとコブラがその力を巡り争った、ドラゴンファイアの力、あれは龍脈の流れを操作したものであると考えられる。 その源泉の1つがチベットにあることは、以前の戦役で判明している。それらを踏まえると、レッドニンジャ達がチベットと関係があるのは、恐らくは神器を龍脈の力で封印するためだったのではないかと思われる。 その際に、チベット・モンゴルで勢力を伸ばしつつあった黄帽派と、何らかの関係を結んだのは想像に難くない。 こうして、神器は安息の地を得ると共に、「ノ-カン-ドー」 達もその黄金時代を迎えることとなった。
 しかし、1644年に李自成率いる反乱軍により北京が陥落し、明朝は滅亡。 明に代わって中原の統治者となった満洲族の清朝の時代となると、事態は急変した。チベットの保護国となっていたモンゴルは、清朝を大ハーンと認め、その「同盟国」となった。 これにより、各国の勢力均衡の下に独立を保っていたチベットにもその影響が及ぶようになった。 類まれなカリスマ性と政治力を誇ったチベットのダライラマ5世は、清朝と友好関係を結ぶ一方で、自身の弟子であり、オイラトのジューン・ガル部族長ガルダン・ハーン、そして明朝の元武将であるが、その功績で藩王となった雲南の呉三桂との交易を行い、清朝への対抗策を練っていた。 1673年に呉三桂による 「三藩の乱」 が発生した際には、ダライラマ5世は呉三桂を支援。 恐らくその際に 「ノ-カン-ドー」 も呉三桂の下に派遣されたと思われる。 ところが、「三藩の乱」 は清朝側の勝利に終わり、中原の覇権を完全に握られた上、チベット側の関与も判明し、両者の関係は緊張度を増した。 その後、清朝はジューン・ガルとの戦争に突入した際にも、チベットは密かにガルダンを支援したが、彼の師であるダライラマ5世は三藩の乱終結直前の1682年に入寂していた。 ガルダンは清朝の物量と西洋式大砲を駆使した戦術に敗北。その後、新たに即位したダライラマ6世は、素行不良を理由に清朝側により廃位させられ、チベットは清朝の管理下に置かれることとなった。 「ノ-カン-ドー」 も 「三藩の乱」、ジューン・ガル戦役に派遣された際にその勢力を徐々に消耗し、チベットが清朝側の管理下に置かれた後は、一部は当地に残り、その他は日本、欧州等に離散したものと思われる。


小結 ─「レッドニンジャ」と「スシの戦い」─

 本稿では、「レッドニンジャ」 とはどの様な存在であったのかを、彼らの祖先である 「ノ-カン-ドー」、及びその活躍した時代を中心に検証して来た。
 先ず、「ノ-カン-ドー」 が活躍した15世紀中国は「北虜南倭」、すなわち北方のモンゴルと南方の倭寇の脅威が猛威を振るった時代であった。 これは、明朝の対外政策である 「朝貢貿易」 体制とモンゴル世界帝国の後継者になろうとしたことが、要因と言える。
 また、当時の日本も南北朝の分裂時代が終わり、足利家による覇権が開始されたが、その財政基盤の強化と日本統治の権威を得るために、明朝から 「日本国王」 の称号を授かり 「勘合貿易」 を開始した。 それに伴い倭寇を弾圧し、一旦はその脅威も消滅したかに思えた。 しかし、日本の応仁の乱による足利家の権威低下に伴い、再び倭寇が活発化。 勘合貿易の紛争に端を発した 「寧波の乱」 がキッカケで、明朝側は日本との交易を厳禁とした。 これにより、「嘉靖の大倭寇」 と称される程、倭寇の略奪は猖獗を極めた。 陸上国家の管理が弛緩し 「海」 の世界の流動性が高まった。
 一方、天皇家から 「神器」 の守護を託された忍者集団 「嵐影」 流は、日本国内の混乱を危惧し、複数あった神器を分割、門人であった愛洲久忠を分派し神器の1つである 「草薙剣」 の守護を命じた。 倭寇と交流があり中国大陸への渡航経験もあったと言われる愛洲は、「陰流」 を率いて大陸に渡り、いつしか 「能砍刀」(ノ-カン-ドー) と呼ばれるようになった。そして、チベットに眠る 「ドラゴンファイア」 の力で神器を封印し、黄帽派との関係が形成された。
 しかし、明朝滅亡後に中国を統治した清朝の時代になると、チベット・モンゴルの勢力図は塗り替えられた。 その結果、両地域は清朝の管理下に置かれ、ノ-カン-ドーも世界各地に離散してその痕跡を消すこととなった。 一部は 「嵐影」 に戻り、また一部は西欧に渡り 「レッドニンジャ」 を名乗る集団となったと思われる。
設定探訪/レッド・ニンジャ達の存在に関する一考察 (寄稿)_d0164702_15242131.jpg 最後に 「スシの戦い」 についての若干の考察にて、この小稿を終わらせたい。
 20世紀後半から暗躍を続ける、国際テロ集団コブラは、現代科学のみならず古代文明、果ては異星のテクノロジーを利用し、その勢力を拡大しつつある。 同組織の傘下にあるニンジャ部隊は、アラシカゲ (嵐影) 宗家のストーム・シャドウによって養成されたが、ストーム・シャドウの離脱により組織改編を余儀なくされた。
 ところが、コブラの新生ニンジャ部隊は、指揮官のナイトクリーパー・リーダーの手腕とカリスマ性の欠如によるものか、上手く機能せずに一部の離反を招いたらしい。 その1人であるダイスは、レッドニンジャの一族であり、チベットにはドラゴンファイアと共に「草薙剣」も封印されたという伝説も知っていた。 コブラへの復讐心を抱くダイスは、草薙剣を使用した龍脈=ドラゴンファイアを利用し、G.I.ジョー・コブラを葬り去ろうとした。 これが 「スシの戦い」 である。 
 一見フザケタこの戦役名は、恐らくは 「四師」(sì-shī) と音が通じる(xi)。「師」 は軍団の意味もある。 では「四つの軍団」とは何なのか? これは、かつて伝説の王である舜により、中原の四方に追放された四体の悪神「四凶」のことではないかと思われる。 ダイスは 「草薙剣」 とドラゴンファイアの力でこの悪神達を操ろうとした。 G.I.ジョーのスネーク・アイは、悪神達を封印するために様々な呪術の用具を身にまとった。 その際に 「幸いを司る」 ということで、「寿司」 の文字を籠手に刻み戦闘に臨んだのではないか。 このように筆者は思う。


【註】
(i) この兵乱は 「靖難の変」 と称される。
(ii) これと対照的に、明朝期では官僚に対する待遇が極めて悪く、財政難による給料遅滞もしばしば起こると共に、宰相級の官僚に対する恣意的な杖殺・棄市も度々行われた。 明朝が滅亡した要因には、宦官の政治への介入が言及されるが、官僚群の忠誠心の低さと汚職も、それと表裏した現象であると言える。
(iii) 朝貢貿易には回数の制限が決められていたが、モンゴル側はそれを無視して交易を行ったため、次第に明朝側の財政負担が増加していた。 この戦いで明朝を破った、オイラトのエセン・ハーンは、朝貢貿易の優待条件を取り付けるために正統帝を捕虜にした。
(ⅳ) この事件を 「土木の変」 という。 正統帝は中国へ早期に返還されたが、その間に帝位についた弟の景泰帝との確執が強まり、配下の宦官を使って帝位を簒奪し、皇帝として再度即位した (奪門の変)。
(v) 軍事力では北朝側が優勢だったにも関わらず、南北朝の分裂が容易に収拾出来なかった理由には、北朝内部の分裂に加え、南朝側が寺社勢力の支援を取り付けると共に、堺等の交易の中心地を掌握し、経済的に優位に立っていたことが指摘される。
(ⅵ)足利側は明朝に使節を送ったが、既に懐良親王が 「日本国王良懐」 として封爵されていたため、受け入れを拒否された。そのため、懐良親王の名を使い、使節を送ることがあった。
(ⅶ) 「日本国王」 の称号に関しては、当時の公家から 「天皇に対する無礼」 との非難が相継いでいた。 また、このことから義満は将軍位に飽き足らず、天皇の地位も狙っていたともされるが、当時の朝廷は南北朝の騒乱を経たことで、権威・経済的に共に弱体化し、足利幕府の影響下にあった。 母方に天皇家の血を引き、 「准三后」 になっていた義満は、仮に天皇家に代ろうとすれば、十分に可能であった。 出家して 「道義」 と号したのは世俗の権威を超越するため、「日本国王」 を求めたのは 「天皇」「日本」 を超越し、「日本」 を国際秩序の中に位置付けるためであったと考えるのが妥当と思われる。 なお、日本側は南京に返礼の使節を送る直前、建文帝の朝廷が滅亡していたとの情報を得ており、用心のために建文帝・永楽帝双方に宛てた文書を用意していた。
(ⅷ) 「寧波の乱」 と呼ばれるこの事件のきっかけは、当時更新されていた 「正徳」 勘合符を大内側が独占したことにある。 これに対して細川側は、当時失効となった 「弘治」 勘合符を持って寧波に赴き、現地の役人に賄賂を渡し自らを正使と認めさせた。 これに激怒した大内側が起こしたのが、この事件である。
(ⅸ) 例えば、応仁の乱の主役である細川勝元の息子政元による 「明応の政変」 や比叡山攻撃等がある。
(x) 発音は 「難」(nán) 砍刀の方が近いと思われるが、意味を考えると、「能」 の方が合致すると思われる。
(xi) または「 死」(sǐ) 師か?


【参考文献】
網野善彦 『異形の王権』 (平凡社、1993年)
上田信 『海と帝国』 (講談社、2005年)
岡田英弘 『康熙帝の手紙』 (藤原書店、2013年)
同 『読む年表 中国の歴史』 (ワック株式会社、2012年)
白川静 『中国の神話』 (中央公論社、1980年)
宮崎市定著 礪波護編 『中国史の名君と宰相』 (中央公論社、2011年)
村井章介 『増補 中世日本の内と外』 (ちくま学芸文庫)
田中健夫 『増補 倭寇と勘合貿易』 (ちくま学芸文庫)
joefig 「設定探報/アラシカゲ一族の歴史を探る」
joefig 「25th/コブラ・ダイス」
NOR 「変G.I.ジョーのひみつ③ 変態ニンジャはJOEの華」

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以上、TORO氏の寄稿による「レッド・ニンジャ達の存在に関する一考察」 でおじゃった!
TORO殿、このたびは高著玉稿を賜り、かたじけのうおじゃる!
正体不明のノ-カン-ドーが、まさかあのDICの 『剣』 でスネーク・アイズめが剣を叩き折っていたことと結びつく可能性もあろうとは、これまたびっくりでおじゃるが、これで余はもう知った。 そして知るは戦いを半分制したも同然でおじゃる!

さて、開かれた学府を目指す当スプリングフィールド大学では、今後も引き続き有識者を招いての学術的探究を続けていく所存でおじゃる。 研究論文の寄稿、ディスカッション、その他質問等に関するお問い合わせは以下へご連絡いただきたい!
   スプリングフィールド大学 研究推進部内 「スプリングフィールド白熱教室」 係

ではまたお会いしよう。 コ~~ブラ~~~~!
by joefig | 2013-04-01 11:30 | 設定探訪

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